高塚地蔵尊とは
神仏混淆の地蔵尊
神仏混淆の形式をそのまま残している珍しい地蔵尊として知られる「高塚愛宕地蔵尊」は諸事祈願成就に大変ご利益があるとして年中たくさんの参拝の人々が訪れています。
開基以来1050年
開基以来1050年、喜びにつけ、悲しみにつけ、数知れない人々が高塚愛宕地蔵尊に足をはこび、お参りしています。
参拝の人々は年ごとに増え、ひとしく地蔵尊の大きな恵に浴しているのです。
高塚愛宕地蔵尊の由来
行基に始まる
今から千二百年余年前の天平十二年、行基という偉い僧が聖武天皇の命を承けて、筑紫の国を巡られました。
帰路、豊後の国日田郡を経て求来里村杉原にいたり、みどり深い東西の地形を眺めたとき、行基は身の引きしまるような霊気と、言いようのない有り難さに心を打たれ『この地こそ、国や人々の悩みを救う大権現様の出現される霊地に違いない』と予言されたのでした。
行基はそれから岩松ヶ鼻(現在の天瀬町馬原の鞍形尾)を通って、この高塚の里に着かれました。
いちょうの中に金色の光
山中で一心に地蔵菩薩を念じていた或る晩のこと、東南方にそびえる大きな公孫樹(いちょう)の中辺に、突然、金色の光を放つ三個の玉を見たのです。行基はおどろき、我が祈りが地蔵菩薩に届いたおしるしであろうと、なお一心に祈り続けました。
夜が白みかけても玉の光はおとろえません。行基は従者をしりぞけ、ひとり、いちょうの大木に登ってみると、三個のうち、ひときわ光る一個は乳房の形をした宝珠でした。
行基菩薩が自ら刻まれた
宝珠を捧げて地に降り立った行基は早速、みずからのノミをにぎって一体の地蔵菩薩を彫り、里人たちに『まことの心をもって宝珠、地蔵菩薩に祈願するなら広く万物は産み栄え、一切のご利益を与えられよう』と説かれたのでした。
その後、いちょうの大木は『乳銀杏』(ちちいちょう)と呼ばれ、永い歴史の間、子宝を恵む霊樹、母乳をさずける霊樹、子供のすこやかな成長をかなえてくださる霊樹として、人々の崇敬を集めてきました。
行基菩薩の遺徳を偲び御堂を建立
行基は天平二十一年二月二日、八十二才で亡くなりました。その後天暦六年二月、行基の御遺徳を偲んだ里人たちが、大いちょうのかたわらに小さな御堂を建立し、行基のきざんだ地蔵菩薩を祀ったのが『高塚愛宕地蔵尊』の始まりです。
昭和50年
昭和50年4月11日 第3駐車場、社務所、籠堂落成式
明治20年
明治20年の境内風景
昭和17年本堂
昭和17年頃の神殿 正面写真
参拝道
昭和27年一千年際記念事業
参道階段作り(県道より第一駐車場迄)
昭和26年より着工、この年完成
鐘楼供出
大正12年
最初の鐘楼で佐賀県道(日田・戸畑線)を馬車で運ぶ。第二次大戦の激化により供出し兵器と消える。
現在の鐘楼は昭和59年に多数の信者の浄財により奉納されたもの。
鐘楼
昭和25年4月鐘楼奉納
馬原村の穴井広治、穴井十郎両氏の世話で、信者多数の寄付により奉納する。第二次大戦で先の鐘楼を供出し、数年間鐘の音のしない境内であった。
高塚さんの歌
昭和59年の御尊堂落慶に制作された高塚地蔵尊の歌